2008/07/19 (Sat) 突然振り出した雨

まっすぐ僕のところに来たヤツは「今晩、飲みに行きませんか?」と誘ってきた。
僕は、反省ってことばを知ったほうがいいんじゃなか? と返し、あんなことされて飲みに行けるほど僕の神経は図太くもないと言った。
お詫びに奢らせて欲しいんですとヤツは言ったが、僕は断り、仕事をしようとした。

しかし、ヤツはデスクの上に置かれた資料の上に手を置き、僕に資料を読ませないようにした。
「仕事の邪魔をして、ずいぶん子供っぽいことするんだな」と僕がキレる前にYさんが声をかけてきた。
ヤツはYさんに対して敵意むき出しにするので、ちょっと心配だったがYさんのほうが上手で、ヤツを追い払う。

そして僕はこの日も残業となった。
ヤツを追い返すために吐いたYさんの理由が明後日の会議の資料つくりがあると言ったからだ。
その会議、僕は関係ないものだったのに、僕も出席することになった。
しかもその会議はヤツも出席するものだった。

Yさんは僕をかばってくれているのか、僕を窮地に追いやっているのか。時々わからなくなる。
が、基本的Yさんに裏切られたことはなく、僕は信頼している。
Yさんが僕をどう思っているかは知らないが。

最近、仕事でヤツと一緒になることがあった。
元々は腐女子ちゃんと、新人(男)が担当していた。
仕事自体はたいして難しいことでもなく、ミスなんて起こらないだろうと思っていた。

しかし、起こったのである。
新人が発注ミスをおかした。
幸い、会社に損害おを与えるような発注ミスではなかったが、その調整のためのミーティングで会った。

会議室に入ってきたヤツは僕を一度だけ見るとあとは視線を合わせようとはしなかった。
やっぱりヤツも後悔しているのかなと思ったが、そうではなかった。
会議終了後、ヤツは「一緒に食事でもどうですか?」と声をかけてきた。

どういう神経をしているんだこいつと思ったが、それは言わずに午後から本来の会議があるからと断った。
別に言い訳をしたわけではない。本当に、その日は午後から会議が入っていて、午前中に終わらせたかった仕事を昼休み中にやりたかったからだ。

僕はもうヤツの反応を待つのを止めた。
ヤツがどう出てくるか伺って、返すのではなく、一方的に終わらせたかった。
いわゆる会話のキャッチボールをする気がなかった。

本当は今すぐにでももっときっぱり、はっきりと拒絶すべきなんだろうけど、このときは一刻でも早くデスクに戻りたかった。
デスクに戻る前に近くのコンビニで昼食を調達した。そしてデスクに戻ると、予想通り新人の始末書は提出されていなかった。

別に十枚書けと言っているわけではない。
ただミスした内容と、そこに至った経緯、これからどうすべきかを箇条書きにして提出するだけなのに。
彼はミスをして悪いと思っていないようで、もう何件も始末書を提出していない。

でもそんな新人に構っている余裕もなく、僕はおにぎりを片手に午後からの会議の資料を再チェックしていると、ヤツが来た。

結局というか、やっぱりというか僕とYさんの態度が変わることはなかった。
ギクシャクすることもなく、必要以上に会うこともなく。仕事を代わりにやってもらうなんてこともなく。
あくまでいつもどおり。

恋愛感情がそこにはないからだ。
キスするたびに態度が変わっていたら、飲み会でふざけてキスなんてできない。というか、気軽に飲み会になんていけない。

Yさんとじゃれあっていると、どうも兄に対する感覚と同じような感覚で甘えすぎているんだと思う。
一般的という考え方が僕はどうもできないが、両親が海外赴任するまでは一家揃っていた。
その二年前に姉は大阪の学校の寮に入ったが。それでも15歳までは揃っていた。

両親が妹を連れて海外赴任をし、残された兄と僕とではあったが、兄は大学に入ってから友人の家を泊まり歩いてなかなか帰ってこなかったのでわりとすぐに一人暮らしの感覚になった。
間に姉をはさんでいるからか、僕たちはあまり兄弟喧嘩をした記憶がない。

かと言って妹のように甘やかされた記憶もない。
兄にはさりげなく助けられた。その程度だ。
だが、ここ近年、兄は僕を甘やかす。

今ならブラコンと言われても仕方ないかもしれないと諦めがつくくらい、甘やかされている。
それと同じくらい、Yさんは僕を甘やかす。
新人の僕を担当したからという理由だけではない甘やかしっぷりだが、そこに恋愛感情はない。

ただYさんの甘やかしのおかげでうまくいけば多めに夏休みが取れそうだ。

すきだらけだというYさんの声がまた聞こえるような気がした。
実際はYさんの吐息が聞こえるだけで、声なんて聞こえない。
というか、Yさんのキスの上手さになんか自信をなくした。

正直、自分キス下手だなと思った。
なんかキスだけでその気になりそうになった。
当然、そういう意味でキスしたわけじゃないとわかっていても久しぶりに勃った。
体を密着させてキスをしていたわけではないので、唇が離れても僕をじっくりと見ない限り、変化に気づくはずはなかった。

「どうだった? お望みのキスは」
憎たらしいくらい余裕のYさんを困らせたくて、久しぶりに勃起しましたと言うとYさんは驚いていた。
そのまま帰ればよかったが、Yさんのキスが上手くて助かったと茶化し、重くならないように振舞い、また洗いざらいしゃべっていた。
どうもYさん相手だと余計なことまでしゃべってしまう。

何かが欠落している僕とは違い、Yさんはヤツに対して怒った。
もし目の前にヤツがいたら、多分ボコボコにされていただろう。
少しだけ気分が晴れた。

その後、僕たちの態度は変わらない。
やっぱりどちらかに恋愛感情があれば、どれだけもう一方が普通に徹していても不自然になるということだ。

結論から言えば、この日キスはしなかった。
突然振り出した雨を理由に、帰宅したからだ。
残念だった反面、安堵したのも事実で、その夜はずっとどうして僕はあんなことを言ってしまったのだろうと考えていた。

馬鹿なこと言ってしまったなと思ったが、やっちまったと後悔したのはこのときからずっとあとで、この日は、明日からどんな顔をして会えばいいんだろうと考えていた。

が、これまた拍子抜けすることに。
その日から十日間、Yさんとはすれ違ってばかりだった。
そして十日ぶりにYさんと会ったのは、梅雨明け宣言もされていないのに、とても蒸し暑い日の定時終了後だった。

ダンボールを二つ重ねにしたYさんがフロアに入ってきた。
最初、それがYさんだとは気づかず、反射的に手を貸した。
Yさんは別に驚くこともなく、自分のデスクの後ろにその箱を置くと、まだあるから手伝えと言う。
あまりにもとは思わないが、自然で結局気にしていなかったのかと暢気に構えていた。

すべての箱を運び終わり、これ何なんですか? と聞くと、Yさんは振り返って、じっと僕を見た。
あまりの真剣な表情に、この箱について聞いてはいけなかったのかと思っているとYさんの顔が近づいてきた。

そしてそのままYさんは首を傾け、僕にキスをした。
自然に、されたキスはヤツにされたキスとは違っていて、驚く間もなく離れた。
「すきだらけだな」と言ってYさんは笑う。
僕は呆気にとられて口を空けると、またキスをされる。
今度は舌が入ってきた。


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